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    オシムの言葉 木村元彦

    • 2012.10.31 Wednesday
    • 17:12
             始まり 


    今年のペナントは最後まで競ったけど、日ハムが一歩抜けましたね。主力が抜けてもすぐに若手が出てくるのはスカウト、育成含め球団の体制がしっかりしてるんでしょうね。その傾向はセよりパに明らかに出るのはどうしてなんでしょう。

    スポーツの話はお嫌いですか?そういえば、女性はあまりスポーツ観ませんね。女性よりも男性がスポーツに惹かれるのは、「勝利」や「一番」があるからではなく、そこには眼前たる「社会」があるからだと思うんですよね。多くのスポーツファンは、スポーツの中の「社会」を見ています。年俸、トレード、ドラフト、監督との確執、レギュラー争い、遺恨試合、スターへの階段、ケガからの復帰、年齢との戦い。本当は試合なんて見なくていいのです。試合にまつわるエトセトラだけを追っていればいいといっても言い過ぎではないのです。

     

    僕が敬愛する本書の主人公、イビチャ・オシムは、サッカー監督でありながら、国や社会と深く関わらざるをえませんでした。時代の影響を受け、愛する祖国の没落とともに生きました。だから、この上なく魅力的なのです。日本の高度成長期とともにあった巨人軍の長嶋茂雄のように。

     

    長嶋茂雄といえば、スターとしての実績もさることながら、独特の言語感覚を持っていて、語録には事欠きませんでした。寿司屋の大将に向かって「ヘイ、シェフ!トロ一丁」と言ったとか、大学時代に「I live in Tokyo」を過去形にする問題で「I live in Edo」と書いたとか、2000年に「んー、ミレニアム。千年に一度あるかないかのビッグイヤーですねえ」とか。

    長嶋をはじめ、図抜けているスポーツ選手は、言葉の使い方にもくせのようなものがあります。反対に、平凡なプレーヤーのヒーローインタビューの何とつまらないことか・・・。その点、オシムの言語センスは長嶋茂雄とは別の意味で、別格ですね。オシムのインタビューは論理的で難解でウィットに富んでいました。試合後の会見で、試合中に肉離れを起こした選手のことを聞かれ、老将は口をへの字に曲げて、答えます。

    「ライオンに追われたウサギが逃げ出す時に肉離れをしますか?要は準備が足らないのです」

    マスコミは東欧からきたこの男の言葉を「オシム語録」として取り上げました。

    「ベテランとは第二次世界大戦の頃プレーしていた選手のこと」

    「レーニンは『勉強して、勉強して、勉強しろ』と言った。私は選手たちに『走って、走って、走れ』と言っている」

    ある会見で、記者が尋ねます。

     

    ―――○○がミスをしましたが。

    「あなたは今までミスをしたことがないのですか?」

    しまった。怒らせてしまったか。緊張した空気が瞬間、会見場に流れた。

    ―――・・・あります。

    「人間誰しもミスはしますよ。選手もミスをします。私だってミスを犯します」

    滔々と諭すように話しかける。もっともな説話に場内は静まる。

    「しかし一番ミスをするのは・・・」ここで一拍置くと笑っていった。

    「プレボディラッ!」

    「通訳だ!」

    当の通訳にそう訳させている諧謔味。会場の笑いは止まらない。

    ユーゴスラビア

    オシムがそのような論理性とユーモアを備えるに至ったのは、育った環境によるものが大きい。オシムはボスニアの首都サラエボ生まれ。第一次大戦のきっかけとなるあの「サラエボ事件」の街。5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家といわれるモザイク国家ユーゴスラビア。

    「歴史的にあの地域の人間はアイデアを持ち合わせていないと生きていけない。目の前の困難にどう対処するのか、どう強大な敵のウラをかくのか。それが民衆の命題だ。今日は生きた。でも明日になれば何が起こるかわからない。そんな場所では、人々は問題解決のアイデアをもたなければならなくなるのは当然だ。」

     

    サッカー同様に学業も優秀な学生だったオシムは、数学者になるべく大学の数学科に入学するも、家計を助けるために退学。プロサッカー選手になることを選びます。選手としてユーゴやフランスでキャリアを積んだ後、監督としても頭角を現し、ユーゴの代表監督に就任します。

     

    当時ユーゴスラビアには不文律の習慣がありました。多民族連邦国家では、各民族の権益は輪番制で、行政や企業のトップは持ち回りで運営されます。セルビア人の任期がきれたらクロアチア人、続いてスロベニア人、マケドニア人というように。そんな時代に代表監督になったオシムは、意地になったようにこの慣例の逆をおこないます。実力が同じなら開催地をホームとしない選手を起用。当然ながら、メディアは反発します。しかし、オシムは意に介しません。スポーツにおいて、誰がどの民族などのという政治的配慮は必要ないのだ、と。

     

    1990年、W杯が近づくと、それぞれの民族から、特定の選手を使えという声は一層激しくなりました。それまでユーゴでまとまっていた人々が「クロアチア人」「スロベニア人」と民族主義が高揚し、国内が割れていきます。サポーター同士の暴動事件が起き、味方であるはずのセルビア人がボールを持つたびに、クロアチア人から大きなブーイングが起こりました。ピッチサイドでは、新聞記者がベンチの近くで選手起用に口出しするなど越権行為をやりだし、メディアは自民族の選手の記事のみを書くようになったのです。メディアによってチームが崩壊する要素がつくられていく中で、幸いにもオシムと選手の関係は良好なままでした。

     

    W杯初戦のドイツ戦で、オシムは各民族のメディアを沈黙させるために大胆な策にでます。それぞれのメディアが使えという選手をすべて使ってみせたのです。結果は散々でした。バランスを崩したチームは1−4で敗戦。オシムはW杯本番をテストに使い、メディアをだまらせたのです。2戦目以降、オシムの本当のW杯が始まり、ユーゴは初めてW杯でベスト8まで上り詰めました。勝てば、ベスト4というアルゼンチン戦は死闘の末PKにもつれ込みます。マラドーナ率いる優勝候補相手にPKまで持ち込み、あと一歩でベスト4というところで、選手たちは戦うことをやめてしまいます。

    ―――監督、どうか、自分に蹴らせないでほしい。

    ほとんど戦争前の国内状況では、誰もチームを代表して蹴りたがらなかったのです。プロパガンダしたがるメディアは誰がPKを外したかを問題にし、それが争いの要因とされることがわかりきっていました。誰も蹴りたがらなかったPK戦は、案の定、必要以上のプレッシャーを背負ったユーゴの選手が次々にPKを失敗し、ユーゴはベスト8で姿を消します。

     

    その後もオシムはユーゴ代表監督を務めますが、国の状態は坂を下るように悪化しました。街中ではセルビア人とクロアチア人による銃撃戦がおこり、選手が自宅に戻ると、集合写真の自分の顔の部分が銃で打ち抜かれている・・・。そんな状況下で、民族籍の異なる選手同士が共に戦うのです。そんな中、徐々に選手が代表を辞退するようになります。

    ―――代表に行けば、自分の村に爆弾が落とされる

    そして92年、試合のハームタイム中に、ボスニアで戦争が始まります。ボスニアのユーゴ連邦からの独立を押し止めんとする連邦軍が三方向から襲いかかりました。オシムが愛した多民族融和の街は、爆弾や銃弾が飛び交う内戦の主戦場となったのです。オシムの妻と娘が残っていたサラエボは完全に包囲され、それから二年半、オシムは妻と娘に会うどころか、連絡すらとれませんでした。通信だけでなく、水の供給もストップされ、妻アシムは、5キロ離れた郊外の排水管まで20リットルの容器をさげて通いました。女性たちは水を汲みに出るとき、たとえスナイパーに撃たれても綺麗な姿で息を耐えたいと考え、いつも薄化粧をしていたといいます。

     

    オシムの妻と娘は運良く、国連軍のヘリコプターでサラエボを脱出し、オシムとの再会を果たします。オシムは、今でも内戦時に自分がサラエボにいなかったことを、強烈な負い目として感じているといいます。心から愛してやまなかった故郷で人が殺されている時、別に場所にいたことを「一生かかっても消えない自分にとってのハンディキャップだ」と。死んだのは撃たれた者だけでなく、隣人が殺し合う酷い状況に絶望して、自らを手にかけた自殺者のいかに多いことか。

     

    オシムは、内戦が悪化する中、ユーゴ代表監督をついに辞任します。愛する街が占拠され、戦争で悲惨な状態にある時にサッカーなどできない。その時のことをサラエボ市民だったファティマは、思い出します。

    「オシムは、あの頃、サラエボの星だった。食料はなくなるし、狙撃を恐れて街を歩けなかった。寒くて、凍えて・・。誰が誰にレイプされたとか・・・。信じられず、仲が良かった友人が、密告しあう・・・。想像を絶する暮らしが私たちをまっていた。そんな中でオシムが我々にむけていった言葉。『監督辞任は、私がサラエボのためにできる唯一のこと。思い出して欲しい。私はサラエボの人間だ』・・・間違いなく・・・我が国で・・・一番、好かれている人物です」

     

    日本

    その後、オシムは日本のJリーグ、ジェフ市原の監督に迎えられました。その独特のサッカー哲学に選手たちは、面食らったといいます。意図のわからない多彩な練習メニュー、走りを中心に据えた激烈なハードワーク。休日は事前には知らされず、当然のように選手からは、不満が起きます。しかしオシムは「君たちはプロだ。休むのは引退してからで十分だ。」と取り合いません。ある日の移動日、練習は夕方の6時からの予定でした。しかし選手は待ち時間を嫌い、着替えてすぐにトレーニングをしたい。キャプテンは、その旨をオシムに伝えました。間髪いれずに、オシムは答えます。「お前が監督になったらそうすればいい。」

     

    考え方だけでなく練習方法も独特なものでした。1対1でのプレイを指示しているにも関わらず、他の選手がぼーっと見ていると「なんで、お前ら助けにいかないんだ!」と怒り出す。実践で1対1が5秒も6秒も続くシチュエーションはない。なぜ指を加えて見てるんだ、ということらしい。「漫然とメニューをこなすな!自分でも、考えろ!」と声を荒げる。

     

    「自分で考える」ことと同じくオシムが強調したことが、「責任の所在をはっきりさせる」ことでした。ある試合で若いMF坂本のちょっとした油断から失点し、勝ちを逃しました。試合直後、オシムはロッカールームにいた坂本の目の前で声を荒げます。「お前のせいで、今日の試合は引き分けてしまったんだ!」チームメイトの前で叱責された坂本は悔しさのあまり泣いてしまいます。翌日、坂本は、オシムに昼食に呼ばれ、説明を受けます。なぜ、あの場でああいう言い方をしたのか。ミスのことは、その場でいっておかないといけない。そして、お前に言うことで、チームへの影響を考えた。このチームはすごくおとなしい。もっと言い合ってもいいんじゃないかと。

    「沁みましたね。あれで、監督についていこうと思いました。」

    責任感の強い坂本は健気に振り返るが、同席したGM祖母井によると、食事の最中もオシムは「昨日はお前が悪い。やっぱりお前が悪い。お前のせいで引き分けた」と叱責を続けていたといいます。

     

    誰の責任なのかをはっきりさせないことを、オシムは日本人の欠点だと言います。

    「私は日本人にあまり責任や原因を明確にしないまま次に進もうとする傾向があるように思います。私には日本人の選手やコーチがよく使う言葉で嫌いなものがふたつあります。『しょうがない』と『切り替え、切り替え』です、それで全部をごまかすことができてしまう。しょうがないという言葉はドイツ語にもないと思うんです、どうにもできないはあっても、しょうがないはありません。これは諦めるべきではない何かを諦めてしまう、非常に嫌な語感だと思います。」

    そして、日本人のメンタリティーについて続けます。

    「日本人は平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。野心にかける。これは危険なメンタリティーだ。受身すぎる。周囲に左右されることが多い。フットボールの世界ではもっと批判に強くならなければ。」

    それは、チームの本拠地である市原市に対しても同じで、

    「ジェフは中間順位にいた時期が長すぎて、選手はそこそこで満足することが染み付いている。でも、それは選手だけじゃないぞ、この街全体もそうだ。この街全体が、だいたい中間でいい、何かを成し遂げようという気がない。だから、ジェフがカップ戦で準決勝までいってるのに、昨日でもお客が3000人しかこない。」

     

    オシムは残念ながら、本当に本当に残念ながら、日本代表監督としての任期途中で倒れてしまうのです。脳梗塞でした。オシムは知的で人格的に素晴らしかっただけでなく、そのサッカーも魅力的なものでした。日本人は、夢を見たのです。この日本人の特性をわかっている指導者は、日本独自のスタイルを作り上げてくれるのではないか、と。オシムは常々、日本人にしかできないサッカーをしなくてはならないと語っていました。今となっては完成形は想像するしかありません。

     

    オシムは、何かを成すためには、リスクを犯さなければいけないと、語っています。日本代表がW杯でベスト16になり、日本中が浮かれていた時も、もう一歩恐れずにリスクを犯せば、もう一つ勝てたのに、と日本人の野心のなさを、一人悔やんでいました。誰もリスクを犯さず、安全なところで守るサッカーを続けていれば、どんどんサッカーはつまらなくなる。哲学者で教育者で厳格な指導者でサラエボの星だった老将は、現実的な試練や辛苦をすべて受け止め、それでも、応援してくれる人が歓喜するような美しい理想を失わずに戦ったのです。民族紛争、内戦、バッシングという現実にさらされながら、追い求めたのは、美しいサッカーだったのです。日本人は、この教えをしっかり受け止めなければなりません。

     

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